大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島地方裁判所 昭和53年(ワ)1049号 判決

原告

加藤新一

右同

加藤キクヨ

右同

加藤浩

原告ら訴訟代理人

藤堂真二

外三四名

被告

右代表者法務大臣

倉石忠雄

被告指定代理人

河村幸登

外二名

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

一  双方の申立

原告らは、「被告は、原告加藤新一に対し金五九〇八万〇八〇〇円、原告加藤キクヨに対し金一五〇〇万円、原告加藤浩に対し金一〇〇〇万円及び右各金員に対する昭和五二年七月二三日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求めた。

被告は、主文同旨の判決並びに担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求めた。

二  原告らの請求原因

(一)  事実の経過

1  原告新一(以下単に新一という)は、大正四年七月一一日山口県豊浦郡殿居村において発生した被害者大田嘉助(以下嘉助という)に対する強盗殺人事件(以下本件犯行ともいう)に関し、同月二五日岡崎太四郎(以下太四郎という)の自白により容疑者として逮捕され、身柄を拘束されながらも一貫して無実を主張し続けたが、予審を経て山口地方裁判所の公判に付され、大正五年二月一四日同裁判所によつて太四郎と共に無期懲役刑を言渡された(以下原一審判決という)。そこで新一は、直ちに広島控訴院に対し無罪を主張して控訴したが、同控訴院は同年八月四日新一の無罪を認めず、一審同様無期懲役刑に処する旨の判決を言渡したので(以下原二審判決という)、新一は、さらに同判決を不服とし、無罪を主張して上告したが、同年一一月七日大審院により上告を棄却する旨の判決を言渡され、ここに新一の無期懲役刑が確定した。

2  新一は、右刑の確定により右同日刑の執行を受け始め、広島監獄、三池刑務所、久留米少年刑務所において合計約一四年一ケ月の間服役した後、昭和五年一二月六日久留米少年刑務所を仮出獄し、昭和四四年一〇月二九日恩赦により残刑の執行を免除された。

3  この間新一は、三池刑務所に服役中の大正一四年頃正木亮巡閲官に対し無実を訴えて情願し、仮出獄後にも昭和二六年頃下関市役所、同法務局支局等を訪れて無実の救済を求め、弁護士らにも冤罪をはらすための相談をしてきたが、遂に昭和三八年三月広島高等裁判所に対し再審の請求をし、その後も第二次(昭和四〇年六月)、第三次(昭和四二年二月)、第四次(昭和四五年五月)、第五次(昭和四九年六月)と再審の請求をしたのであるが、それらはいずれも棄却された。しかし昭和五〇年六月一三日の第六次の再審請求に対し、広島高等裁判所は昭和五一年九月一八日再審開始決定をし、ついで同裁判所は、審理の結果昭和五二年七月七日前記強盗殺人事件について新一を無罪とする旨の判決を言渡し、有罪判決は違法であつたことが明らかにされた。

(二)  公務員の違法行為

原告らは、被告国の公権力の行使に当る捜査官、予審判事の違法な行為と判断並びに原一、二審及び上告審の各判決に関与した裁判官らの過失によつて後記の損害を受けたものである。

1  捜査官及び予審判事の違法な行為と過失

捜査官及び予審判事には次のような違法行為及び過失がある。

(1) 新一は、大正四年七月二五日逮捕され、五日間令状なくして身柄を拘禁され、逮捕後は刑事によつて連日両手を縛り上げられ、顔面を殴打され、靴をはいたまま蹴り上げられるなどの拷問を受け、執拗に自白を強要されたが、拷問に屈することなく一貫して無実を主張した。それにもかかわらず捜査官は新一の言を信ずることなく、拷問を繰返し、自白を強要した。

(2) 太四郎が捜査官に対し、榎並平蔵夫婦との共犯であると供述した結果、逮捕され取調べられた同人らが、平蔵のアリバイの証明によつて釈放された後、太四郎は、今度は新一と共犯である旨供述したのであるが、太四郎の供述は榎並夫婦の誤認逮捕によつても極めて危険な信用性のないものであることが明白である。ところが捜査官ら及び予審判事は、軽率にも太四郎の供述を信用して新一を犯人とした。

(3) 新一と太四郎には大きな年令差、居村の違いもあり、交際も皆無に近く、しかも当時新一は経済的逼迫状態にはなく、一家の支柱として妻子両親を養育する立揚にあつたから、新一の動機としては極めて不明確であるのに、捜査官及び予審判事は、この点の十分な調査を怠り、判断を誤つて太四郎の供述の非信用性を看過した。

(4) 犯行時の新一の着衣に関する太四郎の供述は、着衣の色彩、模様、型態につき一貫性がなく曖昧であり、また新一の犯行時の着衣とされた筒袖襦袢には、太四郎の供述する犯行態様からみて当然に多量の血液がついた形跡がある筈であるのに、薄い僅かの斑点しかついていなかつた。ところが捜査官及び予審判事は適切な法医鑑定によらず開業医の杜撰な意見を盲信して人血痕であると即断し、犯行時の新一の着衣であると認定した。

(5) 捜査官及び予審判事は、凶器を藁切とみているが、被害者嘉助の傷害の部位、程度、数、態様からみて藁切を凶器と判断することは不合理であり、死体解剖と検案書の作成を行なつた医師重村正彬も後に藁切が凶器でないことを証言しているのであるから、凶器について慎重に判断し、同医師に照会するか或いは鑑定に付するべきであつた。ところが捜査官ら及び予審判事は、凶器という最も重大な証拠につき、もつぱら太四郎の供述に信を措き、合理的な疑いと慎重さを欠き、凶器とされた藁切に対する血液鑑定を怠つた。

(6) 太四郎が被害者嘉助の口中に押込んだという手拭についても、太四郎が逃げる際にわざわざこれを持去つたと考えるのは不合理であり、遺留品として発見された形跡もないのに、この点の捜査を怠り、そのため捜査官及び予審判事は太四郎の供述の非信用性を看過した。

(7) 新一は、本件犯行のあつた当夜一二時頃帰宅し、妻フユノと寝た旨供述し、その逮捕前にも捜査官の取調べを受け即日返されていて、アリバイについて何らの嫌疑もなかつたのに、逮捕後は一度として家族と面会させられることもなく、捜査官は、妻フユノを脅迫して実家へ追返してしまい、アリバイに関する新一に有利な証拠を故意に隠滅し、さらに予審判事もこれを看過した。

(8) 太四郎は、酒飲みで勤労意欲がなく、多額の負債を負つて生活に窮し、本件犯行後は下関方面に遁走し、その間生計の糧である馬車引き用の飼馬を売つてその金で遊興し、自宅に戻つて逮捕される直前には剃刀で割腹自殺を図り、犯行当日も自棄的になつて自殺をしようとし妹の嫁ぎ先に赴いて別れを告げるなどし、無実の榎並夫婦を強盗殺人という重罪に陥れても平気である。そして、これらの事実は全て新聞あるいは捜査及び太四郎の供述によつて明白であつたのに、捜査官及び予審判事は、このように道徳心もなく、自制心もなく、自暴自棄的な性格を有し、平然と他に責任を転嫁し、他人を不幸にして反省することのない意志薄弱な者の供述を軽率にも信用した。

2  原一、二審等有罪判決に関与した裁判官らの過失

原一、二審の各判決書の記載によると、新一が犯行を認める趣旨の供述はなく、新一の犯行を直接肯定する証拠は、新一との共犯であるとする太四郎の供述のみであり、これを裏付けるものとしては、太四郎の供述により新一の当夜の着衣とされる証第九号筒袖衣服(新一の父弥太郎の仕事着)に人血が附着していたとする安西茂太郎の鑑定書と、原二審判決が特に挙示した警察官の弥太郎らからの聴取書等でうかがえる、新一が犯行直前ころ借金の督促を受けその支払いに困つていたなどの、いわば犯行の動機ともみられる間接的事情等に関するものであるが、原一、二審の判決の事実認定には、不合理、不自然、不分明、不整合な点が多々存する。それにもかかわらず、原一、二審裁判官らは、証拠上の矛盾を究明して事案の真相を究めることなく、新一が犯人であるとする心証を客観的に十分肯定し得るまで確立することもなく、違法に新一を断罪したものであつて、事実審たる裁判官としての職責を甚しく怠つた重大な過失がある。その詳細は次のとおりである。

(1) 共犯者岡崎太四郎の供述の信用性についての判断の誤り

共犯者の自白については、その証明力の判断に当り、充分な補強証拠の有無を点検し、慎重に検討しなければならないところ、太四郎は捜査官により行政検束によつて違法逮捕され、拷問を受けて自白を強制されていたのであるから、なおさら慎重な判断を要するにもかかわらず、原一、二審裁判所は安易に太四郎の供述を新一を有罪とする主たる証拠として事実認定に供した。すなわち、(イ)当初太四郎は、榎並夫婦と三人で犯行に及んだと述べ、同夫婦のアリバイが証明されるや即時その供述を変え、新一と凶行したと述べており、新一との共犯である旨の供述内容も、捜査から公判に至る過程において種々変遷し、その供述には一貫性がなく矛盾にみちていたこと、(ロ)太四郎が凶器であるという藁切は、重量があつて扱いにくく、止め金をはずさねば携帯できないものであるし、また年令差も大きく、居村も違い、ほとんど面識とてない二人が、夜中に偶然道で会い動機のない新一が即時嘉助の殺害を共謀するなど、いずれも常識では考えられず、さらに凶器も発見されていなかつたこと、(ハ)太四郎が意志薄弱、自暴自棄的性格であつて道徳心に欠け、精神病質者であつたことからすれば、太四郎の供述が信用できないものであることは分つていた筈であるのに、安易に同供述を信用しているのであつて、この点は重大な過失である。

(2) 認定凶器と創傷の不一致を看過した過失

原一、二審判決が凶器を押切(藁切)とみていることは明らかであるが、その認定は社会通念上著しく合理性、客観性を欠くものである。

(3) 凶器及び血痕について鑑定を採用しなかつた過失

被害者嘉助に生じた二三個の創傷からみて、凶器は原一、二審判決の認定する藁切、押切のごときものではなく、また原二審判決挙示の安西茂太郎鑑定書中第九号筒袖衣服の表面に附着する斑点は人血痕であるとする鑑定結論の信用性は皆無に等しいのであるから、原一、二審裁判所は、これらの重要な証拠の評価に当つては、予審決定や捜査官の心証に盲従せず、当然充分に慎重な検討を加えるべきであつたのに、凶器及び血痕についての弁護人の鑑定申請を却下したのは、事案の真相を究めること著しく杜撰で事実審の裁判官としての職責を甚しく怠つたものである。

(4) 現場検証を怠つた過失

原一、二審裁判所は、太四郎の供述の不合理、不自然さと相まって、現場の状況について検証を実施すべきであり、もし検証をしておれば新一が太四郎と出会つて自宅に帰り凶器を携え着衣を替えてきた往復時間が十分であることが不合理であり、灯火なくして嘉助方に赴くことが極めて困難かつ不自然であるなどの事実が判明した筈であるのに、検証をしないままに判決しているが、これは事案の真相を究明せず、客観的合理的であるべき心証形成のあり方に反するものであつて、事実審としての職責を怠つたものである。

(五) 重要なアリバイについて証人調べ等を行なわなかつた過失

原一、二審裁判所が新一において否認しているにもかかわらず、同人の犯行当日の行動についてその妻フユノの証人調べを実施しなかつたのは、事実審としての職責を懈怠したものという外ない。

(三)  原告らの損害

1  新一関係

(1) 逸失利益

新一は、誤つた訴追と有罪判決がなかつたならば、通常の幸せな社会生活を送ることができたのであつて、新一が逮捕された大正四年七月二五日から仮出獄となつた昭和五年一二月六日までの約一五年四ケ月間に及ぶ違法な拘束期間の逸失利益を、昭和五〇年の労働省統計による賃金センサスを用いて算出すると、三七〇三万九二〇〇円となる。

(2) 慰藉料

新一は、前記のとおり無罪判決を手にし、刑事補償法に基く補償は受けたが、身体の拘禁中はもちろんのこと、仮出獄により社会に出てからも故のない日陰の暮しを強いられ、名誉を侵害された苦痛による被害は決して取返しがつかない。このような新一の不幸が、前記のとおり捜査訴追機関及び各審級の裁判所の不法な行為によつて惹起されたものであることを考えれば、被告はその償いとして、三〇〇〇万円を慰藉料として新一に支払うべきである。

(3) 再審無罪判決までに要した裁判諸費用

再審無罪判決確定後新一は、刑事訴訟法一八八条の三に基く裁判費用確定の申立により、昭和五三年七月二〇日一一二万四八七〇円との決定の確定をみたものの、裁判諸費用は、少く見積つても右金額に加えてさらに五〇〇万円を下ることはない。この金額は、本来新一が負担して関係各弁護人及び各代理人に支払うべき性格のものである以上、公務員の本件不法行為と相当因果関係にあるものとして、被告はその支払いの責を免れ得ない。

(4) 本訴提起に伴う弁護士費用

新一は、本訴提起に当り各訴訟代理人に対し、合計五〇〇万円の成功報酬の支払いを約したから、この金額も被告がその支払に任じるのは当然である。

(5) 損害の填補

新一は、昭和五二年一〇月五日付広島高等裁判所の刑事補償決定によつて、一七九五万八四〇〇円の刑事補償金の支払いを受けた。

(6) したがつて新一の請求額は、(1)ないし(4)の合計額から(5)の金額を控除した五九〇八万〇八〇〇円となる。

2  原告キクヨ、同浩関係

原告キクヨは、父である新一の無残な生涯の中で、事件後無理矢理に協議離婚を強いられ絶望の極にあつた母フユノと共に、生後間もなくにして父の家を追われて以来、殺人者の娘、服役者の娘、刑余者の娘として世間の指弾を受け、薄幸な生活を余儀なくされた。その子、原告浩(新一にとつては孫)も同様である。したがつて被告は、慰藉料として原告キクヨに対し一五〇〇万円、原告浩に対し一〇〇〇万円を支払うのが相当である。

(四)  よつて、原告らは、被告に対し国家賠償法一条による損害賠償請求権に基き、新一が五九〇八万〇八〇〇円、原告キクヨが一五〇〇万円、原告浩が一〇〇万円及びこれらに対する本件再審無罪判決が確定した日の翌日である昭和五二年七月二三日から各完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

三  請求原因に対する被告の答弁

(一)  請求原因(一)1の事実のうち、新一が逮捕された日時、その逮捕が岡崎太四郎の自白によつたこと及び新一が身柄拘束中一貫して無実を主張し続けたことは争うが、その余の事実は認める。同2の事実は認める。同3の事実のうち、新一が三池刑務所で服役中に無実を訴えて情願したこと、仮出獄後における再審の請求、再審開始決定、再審における無罪判決が原告ら主張のとおりであることは認めるが、その余の事実は争う。再審による無罪判決があつたからといつて、さきになされた有罪判決が当然に国家賠償法上も違法になるというものではない。

(二)  請求原因(二)1の事実のうち、新一が逮捕されたこと、榎並夫婦が逮捕されたこと、太四郎が新一と共犯である旨供述したこと、新一と太四郎とが居村を異にしていたこと、新一が本件犯行のあつた当夜一二時頃帰宅し、妻フユノと寝た旨供述していたこと、はいずれも認めるが、その余の事実はすべて争う。医師重村正彬は「藁切」が凶器である旨証言しているし、太四郎が嘉助の口中に押込んだとされる手拭は警察官により証拠品として犯行現場において発見されている。

(三)  請求原因(二)の2の冒頭の事実のうち、原一、二審において新一の犯行を認める趣旨の供述がないとする点を除き、これらの判決が新一を有罪とする証拠として原告ら主張のような証拠を掲げていることは認めるが、その余は争う。同2の(1)の事実のうち、太四郎が新一と共犯である旨供述したこと、太四郎と新一とが居村を異にしていたことは認めるが、その余の事実は争う。同2の(2)の事実のうち、原一、二審判決が、その挙示する証拠からみて凶器を藁切とみていることは認めるが、その余は争う。同2の(3)ないし(5)の事実は争う。

(四)  請求原因(三)の事実のうち、新一が仮出獄となつた日時、裁判費用確定額及びその決定年月日、新一が広島高等裁判所の昭和五二年一〇月五日付刑事補償決定により一七九五万八四〇〇円の支払を受けたこと、原告キクヨが新一の子であり、原告浩が原告キクヨの子で、新一の孫であることはそれぞれ認めるが、その余の事実はすべて争う。

四  被告の主張

(一)  原告らの主張する各違法行為は、国家賠償法施行前に行なわれたものであるから、それによる損害の賠償を請求することはできない。

すなわち、

1  原告らの主張する違法行為者は、捜査官、予審判事、有罪判決に関与した裁判官らであるが、これらの者の行為は、遅くとも上告審判決時である大正五年一一月七日以前にされたものである。

2  ところで国家賠償法は、昭和二二年一〇月二七日法律第一二五号として公布され即日施行されたが、同法附則六項によれば「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお、従前の例による。」と規定され、同法施行前の行為に基く損害については同法によつてその賠償を請求することができない旨が明らかにされている。そして、同法施行前においては、公権力の行使に関し、民法の不法行為の規定の適用はなく、その他一般的に国又は公共団体に賠償責任を認める法令上の根拠がなかつたため、国又は公共団体は賠償責任を負わないものと解されていた。右附則六項は、以上のような従前の経緯から同法施行前に行なわれた公務員の公権力行使による不法行為については、その損害が同法施行後に生じたときでも、被害者は国又は公共団体に対して損害賠償の請求をなし得ないことを定めたものである。

3  これを本件についていえば、原告らが主張する各違法行為が国家賠償法施行以前のものであることは前記のとおりで、捜査官、予審判事、有罪判決に関与した裁判官らの行為が新一に対する公権力の行使としてなされたものであることも明らかであるから、本訴請求は、その余の点について審理するまでもなく失当であり、棄却されるべきである。

(二)  仮にそうでないとしても、本件損害賠償請求権は除斥期間の経過により消滅している。すなわち、原二審判決は大正五年八月四日に、上告審判決は同年一一月七日にそれぞれ言渡されているから、民法七二四条後段により、遅くとも上告審判決の時から二〇年を経過した昭和一一年一一月七日の満了により、原告らの被告に対する損害賠償請求権は消滅したものである。

五  被告の主張に対する原告らの反論

(一)  本件では、新一につき昭和五年一二月六日仮出獄が認められているものの、仮出獄も刑の執行方法の一つであり、その後少くとも同人に対し、昭和四四年一〇月二九日恩赦による残刑の執行の免除がされるまでは刑の執行を受けているのであつて、その間新一は、刑法二九条による遵守事項の遵守義務をはじめ、少からぬ刑務上の監督規制を受け、その自由を制限されていたのであるから、同人に対する違法な加害状態は、刑の執行免除まで継続していたという外ない。

(二)  そもそも立法によつて、国民に対し、国家賠償請求権を保障した趣旨は、公権力の濫用の危険性から国民に生ずる損害について国家がこれを補填しようとする国家の自己責任に根拠を有するものであつて、このように解すれば、違法な公権力の執行過程を一体として一つの加害行為を構成するものと解釈し、そこから国民に生じた損害を一括して賠償すべきであるところ、本件では、右の加害行為は、右(一)のとおり、国家賠償法施行後の昭和四四年一〇月二九日まで継続していたから、この間の損害については当然に国家賠償請求をなし得るものである。

(三)  除斥期間の起算点は、再審の無罪判決が確定した日とみるべく、本件では再審の無罪判決が確定したのは昭和五二年七月二二日であるから、除斥期間が満了していないことは明らかである。

仮にいわゆる再審経由説をとらなくても、国家権力の発動状態は一体の加害行為としてとらえられるべく、そうすると、本件における不法行為は誤判に基く刑の執行が終了したときまで継続していたものと解すべきで、本件においては、新一に対する違法な加害状態は、残刑の執行が免除された昭和四四年一〇月二九日まで継続していたのであるから、この点においても除斥期間は満了していない。

六  証拠関係〈省略〉

理由

一本件訴訟までの経過

〈証拠〉によると、新一は、明治二五年四月一日(戸籍上)加藤弥太郎とその妻ツヨとの間の長男として生れ、大正三年には妻フユノをめとり、その間に原告キクヨ(大正三年二月一七日生)をもうけたこと、その当時新一は、中風で働けなくなつていた父弥太郎に代つて生業である農業を行なうなどして一家五人の生計を支えていたことが認められる。

しかして大正四年七月一一日山口県豊浦郡殿居村において、被害者大田嘉助が殺害されるという強盗殺人事件が発生し、新一が、その事件に関し、容疑者として逮捕され、予審を経て山口地方裁判所の公判に付され、大正五年二月一四日同裁判所によつて岡崎太四郎と共に無期懲役刑を言渡されたこと、これに対し新一は直ちに広島控訴院に無罪を主張して控訴したが、同控訴院によつて同年八月四日再び無期懲役刑に処する旨の判決を言渡されたので、さらに無罪を主張して上告したが、同年一一月七日大審院により上告棄却を言渡され、ここに新一の無期懲役刑が確定したこと、新一は、この判決の確定により同日刑の執行を受け始め、広島監獄、三池刑務所、久留米少年刑務所において合計約一四年一ケ月の間服役した後、昭和五年一二月六日久留米少年刑務所を仮出獄し、昭和四四年一〇月二九日恩赦により残刑の執行を免除されたこと、その間、新一は三池刑務所で服役中無実を訴えて情願したことがあること、そして昭和三八年三月広島高等裁判所に対し再審の請求をし、その後も第二次(昭和四〇年六月)、第三次(昭和四二年二月)、第四次(昭和四五年五月)、第五次(昭和四九年六月)と再審の請求をし、それらはいずれも棄却されたこと、その後昭和五〇年六月一三日の第六次の再審の請求に対し、広島高等裁判所が昭和五一年九月一八日再審開始決定をし、さらに同裁判所が、審理の結果昭和五二年七月七日前記強盗殺人事件について新一を無罪とする旨の判決を言渡したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二国家賠償法の適用について

被告は、原告ら主張の各違法行為は国家賠償法施行前に行なわれたものであるから、それによる損害の賠償を請求することはできない旨の主張をしているので、まずこの点を検討する。

(一)  国家賠償法は、昭和二二年一〇月二七日施行され、同法一条一項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と規定しているが、同法附則六項では、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と規定している。この規定からすると、同法施行前における公権力の行使による損害について国又は公共団体に賠償を求め得るか否かはその施行前の取扱いに従うことになるが、公権力の行使に関しては民法の不法行為の規定の適用はないものと解すべきところ、同法施行前においては、公権力の行使に伴う損害について一般的に国又は公共団体に賠償責任を認める法令上の根拠はなかつたから(昭和二二年五月三日施行の日本国憲法一七条も、同条自体から直ちに公務員の不法行為による損害につき国又は公共団体にその賠償を求め得ることを定めたものではなく、具体的な立法をまつて、それに基き賠償を求め得るとした趣旨の規定と解される)、結局、国家賠償法施行前になされた公務員の違法な公権力の行使による損害については、国又は公共団体にその賠償を求めることはできないものという外ない。

(二) ところで、原告らが本訴において公務員の違法な公権力の行使として主張するところは、捜査官、予審判事及び原一、二審等有罪判決に関与した裁判官らの行為のみならず、判決に基く刑の執行としての身柄の拘置及び恩赦により残刑の執行が免除されるまでの仮出獄期間を含むものであることは明らかである。そして、捜査官、予審判事、原一、二審等有罪判決に関与した裁判官らの行為及び判決に基く刑の執行としての身柄の拘置が公権力の行使であることは明らかであるし、また、仮出獄についても、それは刑期満了前条件付で釈放する制度で受刑者の社会復帰を目的とするが、仮出獄者は当然に保護観察に付されるなどその期間中各種の制限を課せられており、有期刑の場合でも仮出獄を取消されることなく刑期を満了したときに始めて刑の執行を受け終つたものとされるのであるから、仮出獄期間中は刑の執行が終了しておらず、したがつてその期間中は、受刑者に公権力の行使が及んでいるものといつて妨げない。しかしこれら公権力の行使としての行為のうち、捜査官、予審判事、原一、二審等有罪判決に関与した裁判官らの行為並びに昭和二二年一〇月二六日までの刑の執行は国家賠償法施行前の行為であつて、同法施行後に及んでいるのはその後の刑の執行のみである。

したがつて本件の場合昭和二二年一〇月二七日の同法施行時以後残刑の執行が免除された昭和四四年一〇月二九日までの仮出獄の期間に限り、それが公務員の故意又は過失による違法な公権力の行使であるならば、そのことによる損害の賠償を国に対して求め得るものというべきである。

(三)  しかして刑の執行は、刑事判決において確定された刑罰を実現する行為であるが、刑罰執行機関としては判決内容をそのまま執行すべき職務を負うのみで、その当否を審査する立場にないから、判決内容にしたがつて執行がされた限りにおいて、それ自体誤つた執行であるとはいえない。しかし刑事判決とそれに基く刑の執行は、制度上異なる国家機関が分掌してはいても、全体としてみれば国家刑罰権の発動であるから、刑の執行の基本になつた有罪判決が違法であれば、これに基く刑の執行も当然違法であるというべきである。したがつて刑の執行に基く損害を賠償すべきか否かは、その基本となつた有罪判決の違法性の有無、これに関与した裁判官の故意、過失の有無によつて決すべきであると解するのが相当である。

三除斥期間について

次に、被告は、原告らの本件損害賠償請求権は遅くとも上告審判決の時から二〇年を経過した昭和一一年一一月七日の満了により消滅している旨の主張をするので検討する。

原告らが国家賠償請求の対象とし得る行為は国家賠償法施行時以後の刑の執行についてであるが、一旦有罪判決が確定すると、再審などの法定の手続による以外何人もその裁判は誤判であり無罪であることをもつてその効力を否定することはできず、このことは有罪判決の正当性が民事訴訟としての損害賠償請求訴訟の前提問題として主張されるときも同様で、単に、再審による無罪判決を経ることなく確定判決の違法を立証することが困難であるというような事実上の問題に止まるものではないというべきであるから、本件損害賠償請求権についての除斥期間は再審による無罪判決の確定までは進行しないものと解するのが相当である。ところで本件の場合再審の無罪判決は昭和五二年七月七日に言渡され、同判決は同月二一日の経過をもつて確定しているから、原告らの本件損害賠償請求権については、除斥期間は満了していないことになる。

四捜査官、予審判事、原一審判決に関与した裁判官らの行為と損害賠償請求権との関係

原告らは、捜査官、予審判事、原一審判決に関与した裁判官らの行為は違法であり過失がある旨主張しているが、これら公務員の行為は国家賠償法施行前の行為であるし、また原告らが被告国に賠償を求め得るとした場合の損害は、国家賠償法施行後刑の執行が免除された昭和四四年一〇月二九日までの仮出獄中に生じた損害のみであるところ、〈証拠〉によると、原二審判決は、原一審判決を取消し、あらためて新一を無期懲役に処する旨の判決を言渡し、この判決が上告棄却の判決によつて確定していることが認められ、この認定事実からすると、刑の執行の基本になつたのは原二審判決であることが明らかであるから、捜査官、予審判事、原一審判決に関与した裁判官らの行為に基く損害については国家賠償法による賠償を求め得ないものというべきである。

五原二審判決の違法性、同判決に関与した裁判官らの過失の有無

(一)  (裁判官の行為と国家賠償法上の違法)

本件では再審手続によつてさきになされた原二審判決が覆され、新一は無罪となつたのであるが、刑事再審手続において取調べられた証拠等によつてさきの有罪判決が客観的真実に反すると判断されたときは、その有罪判決が覆されるのは当然であつて、その限りにおいてさきの有罪判決は客観的結果的に違法となつたものという外ない。しかし裁判官のした行為が結果的に違法になつたからといつて直ちに国家賠償法上も違法であるというべきか否か一個の問題である。新一について有罪とする原二審判決がされた当時は、旧々刑事訴訟法(明治二三年法律第九六号)が適用されていたが、旧々刑事訴訟法においても現行刑事訴訟法と同様に自由心証主義を採用しており(同法九〇条)、自由心証主義の下では証拠の証明力が裁判官の自由心証に委ねられているから、証拠の評価について裁判官により見解の差が生じ、ひいては事実の認定に相違が生ずることは避け難いところである。そしてその事実認定に誤りがあれば、原則として上訴、特殊な場合として再審により是正されるのであつて、いわば裁判制度は起こり得べき誤判を修正するために審級制度を設け、再審制度を設けているのである。このような裁判官の職務、裁判制度の特殊性からして、裁判官の事実認定の誤りが国家賠償法上違法となるのは、上訴或いは再審によつて結果的に違法になつた場合でなく、裁判官が事実認定に当つて経験則、採証法則を著しく逸脱し、裁判官に要求される良識を疑われるような過誤をおかした場合に限られるものと解するのが相当である。

(二)  (本件について判断の基礎とすべき資料)

弁論の全趣旨によると、新一に関する強盗殺人事件の確定記録は、既に保存期間の満了により廃棄され、現在では僅かに原一審判決の原本と原二審判決、上告審判決の謄本を残すのみであることが認められる。しかして〈証拠〉によると、原二審判決は別紙(一)記載のとおりであり、原一審判決の証拠説示部分の記載は別紙(二)記載のとおりであることが認められるところ、これらの判決は、いずれも詳細な証拠説示をしており、当時の法律によると、「刑ノ言渡ヲ為スニハ事実及ヒ法律ニ依リ其理由ヲ明示シ且犯罪ノ証憑ヲ明示ス可シ」(旧々刑事訴訟法二〇三条前段)とされていたから、右各判決において挙示された証拠はいずれも存在し、その内容も判決書に記載のとおりであると認めて差支えないであろう。もつとも判決書の証拠説示は、審理の過程にあらわれた証拠を網羅的に掲げるものではなく、一般に罪となるべき事実を認定するのに必要にして多くの場合最少限に掲げるものであるし、有罪認定に至つた心証形成過程も逐一文面に表現し得る性質のものではないから、証拠として判決書に掲げられているもののみが存在していたものとすることはできない。このことは原一、二審判決を対比してみると、原二審判決に掲げられていて原一審判決には記載されていない証拠、反対に原二審判決になくて原一審判決に記載されている証拠があることをみても明らかである。それに成立に争いない甲第七二号証の一一(大正四年一一月二日付関門日日新聞夕刊)によると、本件強盗殺人事件については捜査官による捜査の上予審手続が行なわれ、予審判事において新一が有罪であるとの判断に達して予審終結決定をし、山口地方裁判所の公判に付されたことが認められるが、旧々刑事訴訟法においては、検事が犯罪の捜査を終つたときは予審を請求すべきものとし(同法六二条)、その際には証憑及び事実参考となるべき事物を送致する等証拠資料を提出すべきものとし(同法六六条)、しかも予審判事には被告人の尋問はもとより検証、捜索、証人尋問の権限まで与えられていたのであるから、被告人が公判に付されるまでにはかなりの証拠が蒐集されるのが通常である。前掲〈証拠〉によると、新一は捜査段階から予審を経て、公判、更に上告審判決の言渡に至るまで、本件犯行を行なつたことを認める趣旨の供述をせず、終始一貫自己の無罪の主張をしていたことが認められるが、このような場合には、特に新一の犯行を裏付ける証拠の蒐集に力が注がれ、蒐集された証拠は相当の量に上つたことと想像される。ところで前掲甲第七二号証の一一(大正四年一一月二日付関門日日新聞夕刊)には予審終結決定書が掲載されているが、これはその体裁、文体、用語、記事内容等からして新一及び太四郎に対する予審終結決定を全文掲載報道したものと認められる。この予審終結決定を〈証拠〉と対比すると、予審終結決定書では原一、二審判決が認定していない事実が認定されていることが認められるが、予審終結決定は、予審判事が前述のような手続によりそれまでに蒐集された証拠によつて被告人が有罪であると判断したときに、事実及び法律によりその理由を付してなされるものであるから(旧々刑事訴訟法一六九条一項)、予審終結決定に記載された事実については、証拠価値の有無は別として少くともこれに照応する証拠があつたものと推認するのが相当である。

このように原二審判決の基礎となつた確定記録の中には原一、二審判決が掲げる証拠以外にも多数の証拠があつたものとみられるのであるが、原二審判決の違法性の有無を判断するに当つて、現実に存否不明の証拠が存在していたものと仮定して判断することはできないから、判断の基礎資料としては、原一、二審判決挙示の証拠、予審終結決定書記載の事実に照応する証拠等原二審裁判所が明らかに判決までに知り、或いは知り得た資料に限定する外はない。

ところで〈証拠〉によると、再審開始決定、再審無罪判決がなされるまでの審理段階において、例えば小林宏志、上野正吉、三上芳雄、松倉豊治、宮城音弥の作成した各鑑定書が証拠として提出され、小林宏志、上野正吉らが証人として尋問されていることが認められるが、本件においては新一について有罪の認定をした原二審判決が、その当時原二審裁判所において認識し、或いは認識し得たと認められる証拠からみて認定に誤りがあつたか否かを審理判断すべきものであるから、その判断には再審段階において始めてあらわれた証拠は不要であり、むしろ判断資料に混入してはならないものである。

以下このような見地に立つて、原二審判決に関与した裁判官らに国家賠償法一条にいう違法行為があつたか否かを検討することにする。

(三)  (原二審判決の証拠上の構成)

別紙(一)の原二審判決と別紙(二)の原一審判決の証拠説示からすると、新一の犯行を直接肯定する証拠は、原二審判決が証拠として掲げたもののうちでは岡崎太四郎の供述(公判における供述、第一回予審調書中の供述記載)のみで、その他原二審の公判にあらわれたことが明らかな証拠としては原一審公判における太四郎の供述及び太四郎の第一回予審調書中原二審判決が挙示していない部分であること、太四郎の供述は要するに、本件犯行当夜田中源吾宅前県道で新一と偶然に会い、互いに身の上話をしているうち本件犯行を謀議し、その間新一は一旦自宅に帰つて着替え、押切(或いは藁切刀)を携行し、ともに嘉助方に赴いて金員物色中嘉助が覚醒したため右凶器をもつて嘉助を殺害したというものであること、原二審判決挙示の証拠で、この太四郎の供述を裏付けるものとしては、新一の犯行当時における着衣とされる証第九号筒袖衣服に人血が附着していたとする鑑定人安西茂太郎の鑑定書、医師重村正彬の検案書中本件犯行に用いられた凶器は柄を把握して強力を加え得る鋭利な種類のものでかなり重い重量を有するものであるとする趣旨の記載、の外新一が犯行直前頃借金の督促を受けその支払に困つていた等のいわば犯行の動機とみられる間接的事情に関する証拠等であることが認められる。しかしてこれらの事実からすると、原二審判決は、主として鑑定人安西茂太郎の鑑定書、医師重村正彬の検案書、新一の犯行の動機とみられる間接的事情に支えられて、太四郎の供述は、同判決が罪となるべき事実として認定した事実に照応する限りにおいて信用するに足るものとして有罪判決をしたものということができる。

(四)  (太四郎の供述の信用性を裏付ける事情)

1  (着衣に人血痕ありとの鑑定)

原二審判決が新一の本件犯行当時の着衣とされる証第九号筒袖衣服に人血が附着していたとする鑑定人安西茂太郎の鑑定をもつて太四郎の供述の信用性を支える大きな柱の一つとしていたとみられることは前述のとおりである。もつとも新一が犯行時着用していたとされる衣類に人血痕があつたにしても、それが被害者嘉助の血液型と一致していたというのであればともかく、そうでなければ新一と本件犯行とを結びつける決め手にはならないが、それは法医学の進歩によつて血液型の判別の可能になつた現在においていえることであつて、成立に争いない甲第五号証(広島大学医学部教授医学博士小林宏志作成の鑑定書)、第二一号証(東京大学名誉教授、東邦大学講師医学博士上野正吉作成の昭和五〇年一一月三日付鑑定書)によると、血痕について人血か否かの検査後に更に人血のときABO式血液型が検査され始めたのは、熊本大学名誉教授世良完介が「乾繰人血ニ於ケル血液種族型ノ証明」なる研究論文を社会医学雑誌四七四号(大正一五年)に発表してからのことであり、原二審判決が言渡された大正五年当時においては血痕についての血液型検査は未だ実行化されていなかつたことが認められるから、同判決のなされた当時としては着衣に人血痕があつたというだけでも太四郎の供述の信用性を保証する有力な資料になり得たものといえるであろう。

そこで安西茂太郎が右鑑定を行なうに至つた経緯及びその鑑定方法について検討すると、同人は大正四年八月下関市立高尾病院長を退職するまぎわ頃検事局の嘱託医高田頼太郎が横一五センチメートル、縦一九センチメートル程度の血痕らしいものが附着した木綿の布片一つを持参して、血痕らしいものが人血か動物の血液かをみてその結果を鑑定書にして出してくれるよう依頼したので、血痕と思われる斑点のある部分を鋏で切り取りこれをシャーレに入れた生理的食塩水につけて血球ようのものを溶かし出し顕微鏡で検査する方法によつたことが、弁論の全趣旨によつて認められる。そして証第九号の筒袖衣服が押収された時期については、〈証拠〉を総合すると、少くとも太四郎が逮捕された大正四年七月二二日以前でないことが明らかである。ところで〈証拠〉を総合すると、安西茂太郎の行なつた鑑定方法は血球検査法(赤血球証明法)といわれるもので、この方法は明治二三年発刊にかかる片山国嘉著の法医学提綱上巻をはじめ、その後大正初期にかけての各種の法医学の文献にはほとんど記述されていて、法医学専門家のみならず、多少とも法医学に興味をもち鑑定等に従事しようとする医師であれば、知つていたものとみられること、しかしこの血球検査法では採血直後の新鮮な血液であつても人血と確定することは至難の業であり、まして血痕ともあれば乾固した後の血液で、血球は萎縮変形して原形を失うため、血液の附着後四日も経過すれば生理食塩液、或いは各種膨脹液を用いてもこれら液中に赤血球を遊出させることは不可能であつて、血球が証明される筈がないこと、そうしたことから大正四年当時血球検査法は、人血か否かの判別方法としては少くとも法医学専門家の間では、ほとんど信用できない方法と評価されていたことが認められる。してみると鑑定方法及び証第九号の筒袖衣服の押収時期からみて、安西茂太郎の鑑定書における鑑定結論の信用性は皆無に等しいものという外ない。

しかしながら前掲甲第二一号証によると、大正四年当時専門の法医学者が常勤していたのは東京大学、京都大学、九州大学の三校のみで、一般には疑問の斑点から血球を溶かし出し、これを顕微鏡で検査すれば人血か否か直ちに判明するという考え方が普遍的であつたことが認められるし、血球検査法による鑑定が信用に価しないことは原二審判決、上告審判決後に裁判所にはじめて分つたことであつて、前記認定事実からすると大正四年当時安西茂太郎自身も知らなかつたことがうかがえるし、まして医学的専門知識を有することを要求されていない裁判官が知る由もないことである。

ここで原二審判決がされた大正五年当時に立ち帰つて考えてみる必要があるが、一般に医学的知識を要する鑑定にあつては、鑑定人が医師で相当の経験を有しているとすれば、その者の鑑定を信用するのが当然であつて、むしろ疑を抱く方が不自然であるといえよう。ところで〈証拠〉によると、安西茂太郎は、明治二九年四月医師開業試験に合格、同年五月医師の免許を受け、東京帝国大学医科大学衛生学選科生、右衛生学教室介補嘱託を経て、その後東京市衛生試験所技手、東京顕微鏡院院長代理、神戸市技師を勤め、明治四一年七月から下関市立高尾病院長兼下関市技師兼同市医に就任し、明治四三年四月下関市細菌検査所長兼技師を兼任する等の歴経を有するもので、大正四年一〇月から公職を辞して下関市で開業医(内科、小児科)として医業に従事していること、安西茂太郎は前記鑑定をした当時下関市立高尾病院長で年令は三九才であつたこと、同人は大正四年当時国家医学会雑誌に顕微鏡的検査による鑑定例の報告を発表していること、同雑誌は、明治年間から大正四年頃にかけて血痕鑑定等については、この種の論文の唯一の発表機関紙であつたことがそれぞれ認められるから、安西茂太郎は、法医学にある程度の興味をもち、顕微鏡による検査にはかなり専門的な知識、技術を体得していたものと考えられ、右国家医学会雑誌も閲読していたものと推認される。もつとも、これらの事実のすべてが原二審裁判所に分つていたとする証拠はないが、原一審判決によると、安西茂太郎が原一審の公判で証人として尋問されたことが認められるし、しかも〈証拠〉によると、安西茂太郎が証人として尋問されたのは大正五年二月七日で前記鑑定後であつたことが認められるところ、鑑定人を証人として尋問する際には鑑定に疑問があればその点を尋ね、鑑定の信用性の有無を確かめるのが通常で、そうでなくても最小限年令、学歴、職歴、業績等についても尋ねるのが、審理の常識であるから、原二審の裁判官らも安西茂太郎の学歴、職歴等に関する前記認定事実の全部ではないにしても相当部分を公判記録によつて知つたであろうことが推知される。そうだとすれば、原二審の裁判官らは、安西が国家医学会雑誌を閲読していたことまでは知らなかつたとしても、同人の年令、学歴、職歴等を知ることによつて、同人の鑑定を信用に価するとしたであろうし、またそうしたことが不合理であるとはいい難い。

ただ原一審判決では「証第九号筒袖ノ表面及び証第十号筒袖木綿単衣ノ表面ニ附着セル斑点ハ動脉ノ切断ニヨリ迸出セル血液ノ附着セルモノト思フ旨」の証人安西茂太郎の証言を証拠として掲げているのに原二審判決ではこれを証拠として掲げていないが、この点をどのように評価すべきであろうか。この点については、或いは右安西証人の証言は信用に価しないとして証拠として掲記するのを避けたとの見方もできようが、それは安西茂太郎の鑑定結果が措信できないことが分つた現在の時点からの推論ともいえるのであつて、原二審判決は、罪となるべき事実の認定に供した証拠としては最小限安西茂太郎の鑑定書を掲げるのみで足り、右証言を掲げるまでもないとの配慮から証拠として掲記しなかつたと考えるのが、むしろ通常の推論といつて妨げないから、右証言を証拠として掲記していないことをもつてその証言の信用性に疑問を抱いたものとみることは困難である。

以上要するに、原二審判決当時としては、安西茂太郎の鑑定を措信し得るものとしたとしても、そのことを非難する余地はない。

2  (凶器に関する検案書の推論)

太四郎は凶器について、原二審判決挙示の第一回予審調書では「押切(藁切刀)」、原一審判決挙示の同調書では「押切」、原一審公判では「藁切」であるとの供述をしたものとされているところ、〈証拠〉によれば、押切、藁切はいずれも農家で藁、草を切るのに使用される農具で、押切は刃部を上に向けて台上に固定し、藁等を載せて切る類のものであるのに対し、藁切は一四ないし二〇センチメートル程度の木製の握り柄があつてとり外しの容易な刃部(長さ四、五〇センチメートル、刃幅は新品で一〇センチメートル程度)を下に向け、受け台と刃部との間に藁等を挾み押しつけて切る類のものであつて、いずれにしても相当の重量と刃長を有し、かつ刃幅も決して狭いものではないことが認められる。このように押切と藁切とは使用目的が共通していても構造的には異なるものであるが、本件犯行が行なわれた当時一般に押切と藁切との区別が明確に認識されていたか否かは疑問である。このことは前掲甲第七二号証の一一に記載の予審終結決定に新一が携行した凶器は、「藁切り押切刀」或いは「押切刀」であると表示されているのをはじめとして、〈証拠〉によると、本件強盗殺人事件を報じた当時の新聞記事に、本件犯行に用いられた凶器が一個であることを前提としながらも、「藁切庖丁」、「押切刀」、「押切庖丁」、「藁切りの押切刀」と各種の表現が用いられていることが認められる点からも推測できるのである。では原二審判決は、凶器として押切と藁切のいずれを想定したものであろうか。この点原二審判決は、凶器の名称に触れた証拠として太四郎の第一回予審調書を掲げているのみで、同調書では凶器は「押切(藁切刀)」と記載されているので、判決からみる限り押切、藁切のいずれともいえない。しかし押切よりも藁切の方が木製の握り柄があつて、とり外しが容易で携行にも便利であり、凶器としても用い易いこと、原二審判決に凶器は柄を把握して強力を加え得る鋭利な種類のもので、かなり重い重量を有するものであるとする重村医師の検案書中の推論が証拠として掲げられていることの外に、〈証拠〉によると、新一が第一次再審請求の当時押切と藁切の違いを正確に区別して説明した上で、太四郎は法廷で新一が持参した凶器は藁切であると述べていた旨供述していることが認められ、この点原一審判決が証拠として掲げる太四郎の公判廷での供述内容と一致していることからして、原二審裁判所は、本件犯行に用いられた凶器としては藁切を想定していたものとみて差支えあるまい。

ところで前掲甲第四号証、第七二号証の一五(大正五年一月二五日付関門日日新聞夕刊で、甲第五〇号証の四も同じ)によると、裁判所に証拠物件として押収されていた凶器は藁切であつたこと、原一審の第五回公判では、裁判長が死体検案をした重村医師の証人尋問の際押収にかかる凶器を同医師に示してそれが本件犯行に用いられた凶器であるか否かについて意見を求めたことが認められる。なおその際の重村医師の意見については、前掲甲第七二号証の一五によると、大正五年一月二五日付関門日日新聞夕刊には、重村医師は押収中の凶器を示され「斯かる刃物にて蒙らしめたる傷所なりと明答したり」との記事が掲載されていることが認められるが、原二審判決にも原一審判決にも右新聞記事にあるような重村医師の証言は証拠として掲げられていない。そのことからそのような証言はなかつたか、或いはあつたにしても信用性に乏しいと判断したためとも推測できよう。しかし原二審判決が原一審判決に掲げられた証人安西茂太郎の前記推測証言、すなわち証拠物件である衣類に附着していた斑点は、「動脉ノ切断ニヨリ迸出セル血液ノ附着セルモノト思フ」旨の証言を証拠として挙げていないことからすると、原二審裁判所は、それと同様に右のような重村証人の証言はあつたが、いわば推測に当る証言として、心証形成には役立てても、証拠として判決に掲げるまでもないと判断したためとも推測できないわけではないから、重村医師の証言内容が判決に掲げられていないことをもつて、裁判所が凶器は藁切であつたとすることに疑問を抱いていたものと即断することはできない。また、〈証拠〉によると、新一は第一次再審請求以降において、重村医師は裁判長からの、押収にかかる藁切が犯行に用いれらたものと思うかとの質問に対し、少し首をかしげていたが、「それではないと思う、幅は狭く相当重量のあるものだと思う」旨の証言をしたと供述していることが認められる。もし重村医師の証言がそのとおりであつたとすれば、凶器に関する太四郎の供述の信用性は崩れる可能性があるが、原二審判決が凶器は「押切(藁切刀)」であることを前提とする太四郎の第一回予審調書を信用に価するものとして証拠に挙げていることからして、新一の右供述はにわかに措信し難い。

次に藁切が証拠物件として裁判所に押収され、これについて裁判所が証人としての重村医師に意見を求めているのに、原二審判決(原一審判決についても同様)が「押収にかかる藁切の存在」を証拠として掲げていない点、またその認定事実において凶器を「藁切」と特定せず、「鋭利ナル刃器」と極めて漠然とした表示をしている点からすると、原二審裁判所は少くとも押収されていた藁切自体が本件犯行に用いられたとすることに疑問を抱いたものとみられる余地が多分にある。そのことは、前掲甲第七一号証によつて、新一が第一次再審請求当時予審判事から鑑定の結果凶器とされる藁切から血痕の検出ができなかつたと聞かされた旨供述していることが、また前掲甲第七二号証の一八によると、大正五年二月八日付防長新聞に原一審の第六回公判において検事が論告の中で「兇器押切庖丁の血痕は兇行後之れを洗滌したることは用意周到なる新一の成し得べき筈なり」と述べた旨の記載があることがそれぞれ認められ、これらの事実からすると、押収にかかる藁切からは血痕が検出されなかつたものと認められる点からしてもうなずけるのである。では原二審裁判所は、重村医師の検案書に被害者の傷はかなり重い重量を有する鋭利な刃物によるものとの記載があるところから、幅、重量、形状等において押収にかかる藁切に類似はするが、異なる種類の刃物が凶器として用いられたとの想定の下に凶器について抽象的な表示を用い、あえて凶器の特定を避けたのであろうか。原二審判決或いは原一審判決に関与した裁判官からの証言が得られない現在においては如何ようにも推測できるが、原二審判決が証拠として犯行に用いられた凶器は「押切(藁切刀)」である旨の太四郎の第一回予審調書を掲げていること、同じく証拠として掲げられた重村医師作成の検案書中で推論された凶器は、形状、重量の点からして藁切と符合することからして、原二審判決は、あくまでも藁切を凶器と想定したものと推測する方が自然であると考えられる。

ところで〈証拠〉を総合すると、被害者大田嘉助の死体に存した創傷は、その部位、個数、程度等からみて刺創、切創、刺切創の類であり、藁切のような重量のある刃器によるものと考えるのは困難であつて、簡単に懐に収められる程度の七首、小刀の類による成傷であるとするのが合理的であると認められるから、本件犯行に用いられた凶器は太四郎の供述にある「押切(藁切刀)」ではないということになり、重村医師の検案書に記載された凶器に関する推論も合理性に疑問があることになる。もつとも弁論の全趣旨によると、岡山大学医学部名誉教授、川崎医科大学教授医学博士三上芳雄作成の昭和五一年三月二三日付嘱託鑑定書には、嘉助の死体に存する切創のうち、左胸部後面の切創は割創と認めるのが妥当で凶器は重量がありかつ大にして刃部の先端を含めて鋭利な凶器に由来し、その他多数の切創もその凶器の刃部の接触等によつて生じ得るものと思考する旨の記載があり、また兵庫医科大学教授松倉豊治作成の昭和五一年四月二二日付鑑定書には、嘉助の死体にみられた創傷中、左胸部後面の大創傷は、かなりの重量のある、かつ刃部の鋭薄なる大型の刃物を用器として生じたとするのが妥当であり、その他の創傷も同様な刃物で生じさせることが可能である旨の記載があり、両鑑定書とも嘉助の死体にある創傷は藁切によつて形成することが可能であるとしていることが認められる。しかしてこれらの証拠、つまり上野正吉、小林宏志、三上芳雄、松倉豊治の各鑑定書等はいずれも再審開始請求以後に裁判所に提供されたものであつて、結論的には上野正吉、小林宏志の意見が合理的であるにしても、最近においてさえ同じ法医学の専門家である三上芳雄、松倉豊治が本件犯行に用いられた凶器について重村医師の検案書における推論とほぼ同様の推論をしていることは看過できない点である。それも三上芳雄、松倉豊治の各鑑定が一見して誤りであるといえる程度のものであればともかく、いわば上野正吉、小林宏志の各鑑定との対比において採用し難いというにとどまるから、原二審判決当時において原二審裁判所が凶器は柄を把握して強力を加え得る鋭利な種類のもので、かなり重い重量を有する刃物であるとした医師重村正彬の検案書中の推論を信用しても無理からぬものといえるであろう。そうだとすると、原二審裁判所が太四郎のいう藁切と右検案書において推論された凶器が符合することからして、右検案書の記載を太四郎の供述を信用する一つの支えとしたであろうことも首肯できないわけではない。

3 (犯行の動機とみられる情況)

原一審判決は、太四郎の本件犯行前の言動に関する補強証拠として第三者の供述記載(証人榎並タネの予審尋問調書、証人片田峯次の予審尋問調書、岡崎マサの聴取書)を掲げ、新一の動機に関しては太四郎の供述の外これを裏付ける証拠を掲げていないのに対し、原二審判決では、太四郎の本件犯行前の言動に関する前記第三者の供述記載を証拠として掲げることなく、第三者の供述記載としては新一の犯行の動機とも目される情況に関するものを掲げているに過ぎない。そしてこれら第三者の供述記載は警察官或いは予審判事の作成にかかるものであり、警察官の作成にかかるもののうちには予審終結決定に記載された事実に符合すると認められるものもあるから、原一審公判にも提出されていたとみて差支えあるまい。そうだとすると、原一審判決では太四郎の本件犯行前の言動に関する補強証拠としての第三者の供述が存することをもつて太四郎の供述を信用できるとする重要な根拠としたともいえるし、また原二審判決は太四郎の供述がそれ自体信用に価するものとしてそれらの証拠を掲げることなく、新一の本件犯行当時における行状、経済的事情等が否認している新一の犯行への動機として重要な意味をもつものとして、その点に関する証拠を判決に掲げたものとも臆測される。しかしこれは現在の時点において原一、二審の裁判官の意向を忖度してのことであつて、いずれにしても明確な根拠がない以上憶測の域を脱しない。本件で問題になるのは、原一、二審裁判官の意向をせんさくすることでなく、要は原一、二審判決に掲げられた証拠、或いは予審終結決定における認定事実から推して存在したであろう証拠から、新一が本件事件を犯したと認めるだけの情況、動機があつたといえるか否かである。そうした観点から検討すると、原一、二審判決、及び前掲甲第七二号証の一一によれば、新一の本件事件前の行状、経済状態として、予審終結決定では、新一はさきに郵便物集配人として雇われていた間数度信書を破棄して印紙及び為替金を窃取したことがあつて起訴猶予に附されたことがあり、平素遊堕にして家業に励まず、その上年来賭博にふけり、しきりに賭場に出入し、不相応の負債を生じていたとの事実認定がされていること、警部補長尾宗之進作成にかかる加藤弥太郎の第一回聴取書には、新一は大正四年七月九日夜村岡清次から借金五円八〇銭の、岡山美吉から売掛金一円余りの各催促を受けたが、いずれも所持金のないことを理由に支払いを拒み、同月一〇日夕刻には前田又次郎から散髪代の請求を受けたが、これも所持金のないことを理由に支払いをしなかつた旨の供述記載があること、予審終結決定では、請求を受けた散髪代は前年の散髪代であつて、しかも金額は僅か数十銭であり、特別厳重な請求を受けていた旨の事実認定がされていること、新一は原一審公判で本件犯行のあつた当時村岡清次、岡山美吉外数名の者に対して負債があり、うち村岡と岡山については大正四年七月九日夜支払いを請求してきたので同月二〇日まで支払いの延期を頼んだ旨の供述をしていること、本件犯行があつた当夜における新一の行動、新一と被害者嘉助との面識の程度については、新一は原二審公判で事件当日の七月一〇日の夜銅貨二〇銭を所持して皿山の河野喜太郎方で賭博をし全部負けた旨、大田嘉助方では賭博をしたことがあり、また同人方に泊つたこともあつて、同人方の様子はよく知つていた旨の供述をしていること、新一の本件強盗殺人事件後における金銭の支出については、新一の第二回予審調書に新一は七月一二日松村の日雇賃を一円紙幣で支払い、同日内海邦一にも一円紙幣一枚を支払い、同月一三日には前田又次郎に対し散髪代を支払つており、同月一四日には鯛二尾を二〇銭で買つた旨の供述記載があること、加藤弥太郎の前記聴取書には、新一は同月一七、八日頃西市警察分署に連行されるとき七円一〇銭在中の薬箱を密かに弥太郎に預け、弥太郎は賭博によつて得た金と思い、その夜は表の間押入に隠匿しておき、翌朝納屋の天井の籾入の叺の中に隠し置いた旨の供述記載があることがそれぞれ認められる。そこで、原一、二審判決、予審終結決定からうかがえる新一の七月一〇日頃における所持金の額を算出すると、少くとも一円紙幣二枚と他に八円程度の合計一〇円程度は所持していたことになり、所持金に関する限りは七月一〇日一〇円ばかりの所持金があつたとする新一の原二審公判での供述とほぼ一致することになるが、その当時における新一の債務は、村岡清次に対し五円八〇銭、岡山美吉に対し一円余、前田又次郎に対し数十銭、松村に対し一円程度、内海邦一に対し一円で、合計一〇円程度になるから、新一は本件犯行が行なわれた七月一〇日当時経済的に相当逼迫し困窮していたものとみられてもやむを得ない。もつともこれは新一が七月一〇日以降同月一七、八日までの間何らの収入も得ていないことを前提とするものであるが、〈証拠〉によると、第一次及び第六次の再審請求時に、新一は、家業の農業収入の外排水工事や木材運搬の請負賃などでかなりの収入があり、大正四年六月初めには山本政一から水田の排水工事を五五円で請負いその請負残代金一五円五〇銭を七月一二日に受領した旨及び村岡清次らの催促に対し金を支払わなかつたのは、家族の日常生活に支障を来たすおそれがあつたからである旨供述していることが認められる。もしその供述するところが真実であつたとすれば、原二審判決が証拠として掲げる、新一の事件当時における経済的状態、金銭の出入に関する第三者の供述は、新一の動機を裏付けるものとしての証拠価値は全くないことにもなる。しかし新一の供述どおりであるとすれば、本件犯行のあつた七月一〇日当時新一は近々支払を受けられる一五円五〇銭の債権を有していたことになるから、多額の借金、つまり村岡清次からの借金五円八〇銭の支払を拒んだことはうなずけるにしても、岡山美吉からの買掛金一円余り、殊に散髪代の僅か数十銭の支払を拒んだことは何とも理解のしようがない。それと同時に前掲甲第七一号証によると、新一は予審判事から本件犯行のあつた頃の所持金について尋問を受け、七月一二日に山本政一から一五円五〇銭受領したことも申出て取調べを求めていることが認められるから、予審判事が右金銭授受の事実の有無を取調べていることは当然推認されるのであるが、その結果が前掲甲第七二号証の一一によると、予審終結決定で右金銭授受の事実と両立しない事実が認定されていることが認められる点からすると、七月一二日新一が山本政一から一五円五〇銭受領したとの供述は措信し難い。

他方被害者嘉助については、原二審判決によると、警部代理巡査部長鍋武九一作成にかかる桂太市の聴取書には、桂太市は多年嘉助に賃金を与えて木炭を焼かせており、大正四年六月一七日に嘉助に対し一〇円渡したが、同人は常に少々の金は所持していた模様である旨の供述記載があること、警部補長尾宗之進作成にかかる林利吉の聴取書には、嘉助は大正四年七月六日林利吉に対し金はいくらでもある、ここに一〇〇円持つているといつてハンカチに包んだ紙幣を示した旨の供述記載があるところからして、嘉助は事件当時相当の金を所持していたものと推認できる。

以上述べたところからすると、新一は郵便物集配人として雇われていた間数度信書を破棄して印紙及び為替金を窃取したことがあり、年来賭博にふけり度々賭場に出入りし、かなりの負債を負つていて本件犯行のあつた当時生活に窮していたとみられてもやむを得ないし、また嘉助方で賭博をしたり泊つたりしたことがあり、同人方の内部の様子をよく知つていたことからすると、前掲甲第七二号証の一一に記載の予審終結決定が認定しているように、「独身者大田嘉助が常に多額の金銭を所持し居るを聞知し一再ならず窃取の機会を窺ひいたり」と推断することも、あながち不自然であるとはいえまい。そうだとすれば、新一には同人が本件犯行を犯したとみても不合理ではない程の動機があつたといえなくはない。

4  (太四郎の供述の一貫性)

原二審判決によると、太四郎が新一と出会うまでの経過として、太四郎は原二審公判において、大正四年七月一〇日夜酩酊して榎並平蔵方に立寄り同所で大田嘉助に出会い、同人の所持する提灯を強いて持ち去ろうとして同人から暴行を受けたが、酩酊しているのと力量において嘉助に敵し難いことを知つているため、隠忍してその場を立去り、渡辺千吉方下婢と密会しようとして片田峯次に周旋を頼んだが拒まれ、失望すると共に過去を追想し、屡々妻と離別し目下ある一〇〇余円の負債を支払えないことに思いをいたし、むしろ自殺するに如かずと考え、妹の嫁先である永富禎輔方を訪れ告別の意を表し、同夜一二時過ぎ頃一旦帰宅の途中田中源吾宅前道路で新一に出会つた旨供述しており、新一と出会つたとの事実を除いてこの供述は、原一審判決挙示の証人榎並タネ、同片田峯次の各予審尋問調書、岡崎マサの聴取書の各記載に照応しているから、真実を述べたものと認められる。そして原一、二審判決によると、新一と出会うまでの経過については太四郎の供述は、榎並平蔵方と渡辺千吉方に立寄つた順序、渡辺千吉方の下婢の氏名等細部にわたつては若干のくい違いがあるが、予審段階から原二審段階まで大筋において一致していることが認められる。

さて太四郎の供述のうち新一と出会つた後の部分の供述はどうであろうか。原一審判決によると、太四郎は原一審公判において、新一と出会つた際新一に対し嘉助と提灯のことで口論をし同人から暴行を受けたことを話したところ、新一は嘉助が金を持つているかと尋ね、僅か提灯位のことで馬鹿にされることはない、同人は金を持つているから取つてやろうではないか、自分も行くから一緒に行けといつたので承知したが、新一は一応帰つてきてもし嘉助方で金は取れず、逃げられぬときはこれでやつてやると言つて藁切を示し、共に嘉助方に行つた旨供述しており、原二審判決によると、原二審公判では、新一は嘉助は賭博で大分勝ち金を持つているから同人方に行き金をとるから同行せよと言つたので自分も行く気になつて嘉助方に同行した旨供述していることが認められる。また原一、二審判決によると、太四郎は第一回予審調書で、太四郎が新一と出会つてから嘉助方に赴く途中までの段階のことについては、原一、二審公判での供述よりも詳細に述べており、新一が太四郎に示した凶器の表示について藁切か押切かの差はあるにしても大筋において合致する供述をしていることがうかがわれる。

ところで太四郎が嘉助方に赴いて後の状況、殊に犯行時の状況については、太四郎の第一回予審調書に詳細な記述があるのに対して、原一、二審判決の掲げる太四郎の公判での供述には太四郎と新一が嘉助方に赴いてからの状況に触れた部分がないので、そのことだけからすると、太四郎は公判段階において従来の供述を翻したのではないかとみられかねないが、〈証拠〉によると、太四郎は公判廷でも予審におけると同様本件犯行は新一との共犯で、新一が凶器をもつて嘉助を殺した旨供述していたことが認められるから、犯行の態様の詳細についてはともかくとして、新一が太四郎と共に嘉助方に行き凶器をもつて嘉助を殺害したという点については、太四郎の供述は予審段階から公判段階を通じて一貫していたことになる。

このように、本件犯行が行なわれた七月一〇日夜の言動についての太四郎の供述は予審段階、公判段階を通じて大筋において一致し一貫していたのであるから、太四郎が永富禎輔方を訪ね帰宅の途中田中源吾宅前の道路に至つたという太四郎の供述部分が第三者の供述により真実であることが裏付けられたことと相まつて、本件犯行が新一との共犯であるとする太四郎の供述に信用性があるものと認めても、経験則に反するものとはいい難い。

5  なお原二審判決によると、太四郎は第一回予審調書中で本件犯行当夜新一と出会つた際新一が賭博を打ちに行つての帰りであると述べた旨供述しており、新一も原二審の公判で当夜皿山の河野喜太郎方で賭博をした旨供述しており、両者の供述は本件犯行があつた当夜新一が賭博をしたという点では一致していることが認められる、ところで本件犯行があつた当夜新一が賭博をしたことは同席者ないし同席者から聞いたものしか知り得ないことであるから、もし太四郎がそうした者から聞いていないで供述したものとすれば、新一自身から聞いたものと推測できないこともないので、太四郎の供述の信用性を保証する一つの根拠となり得る筈である。そこで本件犯行が行なわれた後の太四郎の行動について検討してみることにする。〈証拠〉を総合すると、大正四年七月一一日早朝嘉助がその住んでいた炭焼小屋前の水田の中で重傷を負つて死亡しているのを右水田の所有者重見善次が発見して急報し、直ちに捜査官が急行するとともに消防団員も招集されて捜査が開始され、村人からの聞込みや事情聴取が行なわれ、新一も嘉助方に近い河野喜太郎方で七月一〇日夜六、七人で賭博をしていたため、ともに賭博をした内田又市らとともに事情聴取を受けたこと、他方太四郎は犯行後下関方面に逃走し、七月一八日頃自宅に帰り自殺を企てたが結局七月二二日に逮捕されたこと、逮捕された際にも剃刀で割腹を企て腹部を一文字に掻き切つていたが軽傷であつたため、そのまま連行されたこと、太四郎は取調べによつて本件犯行を行なつたことを自白し、その自白に基いて新一も同月二五目頃に逮捕されたことが認められる。しかしてこの事実からすると、捜査官は新一が本件犯行のあつた夜賭博をしていたことを太四郎の逮捕前に知つていたものとはいえるが、だからといつて太四郎が捜査官から聞いて或いは捜査官の誘導により前記供述したと認めるべき確証はないし、また太四郎が自宅に戻つてから逮捕されるまでの間に噂として新一が事件当夜賭博をしていたことを知つていたともみられる余地があるが、これを肯定するに足る証拠もない。したがつて、太四郎が捜査官等他からの情報によらないでそのことを知つていたとみられる可能性があるが、そうした前提で太四郎が予審において新一が事件当夜賭博をした旨の供述をしたものとするならば、太四郎の供述の信用性を支える大きな根拠となるであろう。しかし太四郎において新一が事件当夜賭博をしたことを知つた根拠が明らかでないから、当裁判所としては、太四郎の前記供述をもつて同人の供述が信用できるとすることの根拠とはしない。

6  ところでこれまで原二審判決当時における法医学の水準、安西茂太郎の年令、経歴等からして太四郎が本件犯行当時新一において着用していたとする証第九号の衣類に人血痕があつたとする安西茂太郎の鑑定を信用したとしても非難に価しないこと、凶器は柄を把握して強力を加え得る鋭利な、かなり重い刃物であるとの医師重村正彬作成にかかる検案書中の推論が正しいものと考えたとしても不自然ではないこと、その推論された凶器が藁切と符合すること、新一には本件犯行の動機と目されてもやむを得ない情況のあつたこと、原一、二審判決に掲げられた太四郎の供述からみても少くとも太四郎が藁切を携行した新一と共に嘉助方に赴く途中までの太四郎の供述部分は大筋において一致し、予審以降一貫しており、太四郎の供述中同人が帰宅の途中田中源吾宅前まで至つたことについては十分な裏付けもあつたことを述べたが、これらの事情が存在すれば余程太四郎の供述の信用性を疑わせる根拠でもない限り太四郎の供述を信用しても不合理であるとはいえないであろう。

(五)  (太四郎の供述の信用性を疑わせる事情の有無)

そこで太四郎の供述の信用性を疑わせるものがあつたか否かであるが、原告らは太四郎の供述が信用すべからざるものであつたことについて、種々主張しているので、その主張に即して検討することにする。

1  (榎並夫婦逮捕の一件)

まず、当初太四郎が榎並夫婦と三人で犯行に及んだと述べ、同夫婦のアリバイが証明されるや即時その供述を変え、新一と凶行したと述べている点である。

この点〈証拠〉によると、再審無罪判決においては、太四郎は新一が逮捕される前榎並平蔵、タネ夫婦との共犯である旨自白し、その自白により榎並夫婦が逮捕されたとの事実を認定し、榎並夫婦との共犯が崩れたことによつて、岡崎太四郎の虚偽の自供に対する糾明はさらに激しくなつたであろうことが当然推察され、その結果がさらに虚偽の自白を生み、新一との共犯を作り出すことに発展して行つたのではないかと疑われないでもないとし、また新一の述べるところからすると、太四郎が当初榎並夫婦との共犯を自供した際にも自分は追従的立場に過ぎなかつた旨供述し、新一との共同犯行の態様と全く軌を一にしているところから、太四郎の供述を全面的に信頼するのは危険であるというべきである、と判示していることが認められる。確かに新一の逮捕前に太四郎の自白によつて榎並夫婦が逮捕され、その自白内容も再審無罪判決の判示するとおりであつたとすれば、太四郎の自白には疑念を抱くのが当然であつて慎重に吟味する必要があることは同判決の判示するとおりであり、その考え方に異論を狭む余地はない。しかし新一の逮捕前に太四郎の自白によつて榎並夫婦が逮捕されたこと、及びその自白の内容を示す証拠が公判廷において提出されたことを認めるに足る証拠はないし、原二審裁判官がこれらの事実を知つていたものとうかがわせる資料もない。むしろ榎並夫婦の逮捕、太四郎の榎並夫婦との共犯であるとする自白内容が公判廷に提出されていなかつたであろうことは、太四郎と共に審理を受けた新一が知らないはずはないのに、〈証拠〉によると、新一は昭和三八年に至り内海邦一、河田音三らから自分の逮捕前に太四郎の自白によつて榎並夫婦が逮捕されたことを聞いて初めて知つたことが認められる点からもうなずけるのである。

してみると、太四郎が当初榎並夫婦と三人で犯行に及んだ旨虚偽の供述をしていたことから、新一との共犯であるとする太四郎の供述の信用性に疑問をもたれるといつても、それは公判廷にあらわれない事実によつて太四郎の供述の信用性に疑問を抱くべきであるというに等しく、所詮不能なことを強いるものであるという外ない。

2  (供述の変遷の有無)

原告らは、新一が共犯であるとする太四郎の供述内容は、捜査から公判に至る過程において種々変遷し矛盾しているのに安易に信を措いた旨主張しているが、さきに述べたとおり原一、二審判決に掲記された太四郎の供述からみる限り、新一が藁切を携行して嘉助方に赴く途中までの経過については細かい点で若干の違いはあるが、基本的には一貫したおおむね同様の内容となつている。

新一の犯行当時における着衣については、成立に争いない甲第五三号証によると、新一より法務大臣宛の昭和四五年九月三〇日付歎願書に、新一が警察で太四郎と対決したとき太四郎は犯行当夜新一と会つたときの同人の着衣は浴衣であつたと述べ、その後警察の調べで浴衣でないことが証明された後は、警察からこれではないかと父の衣類を示されてそれであつたと述べた旨記載されていることが認められ、前掲甲第七二号証の一四によると、大正四年一二月一四日付関門日日新聞夕刊は同月一三日に開かれた原一審第二回公判の模様を報じ、その中で新一が、太四郎は新一の着衣について検事に対し初めは縞の着物といい、次いで絣といい、予審廷では多分絣の筒袖であつたろうと曖昧な言を吐いたし、その他太四郎は着物を着替えずといい、予審廷では着物を着替え古びたシャツを着ていたと言つた旨の陳述をした旨を記載していることが認められる。これらの事実からすると、太四郎は捜査段階、予審段階を通じて新一の着衣に関する供述を変えていつたのではないかと推測されないでもない。ところで原二審判決においては、認定事実中に本件犯行当時新一が着用していた衣類は仕事着(証第九号)とされ、右判決の掲げる証拠では押収第九号襯衣(太四郎の公判廷での供述)、第九号証の襯衣(新一の公判廷での供述)、第九号筒袖衣服(安西茂太郎の鑑定書)と様々な表現が用いられている外、太四郎の第一回予審調書中では、「腰切様ノ物ニテ襦袢ヨリ少シ長キモノ」とされ、原一審判決が証拠として掲げる太四郎の第二回予審尋問調書には、新一が着替えた腰切は太四郎の当夜の着衣より少し白く縞のないもののように思われ、「縞ノ襦袢ガ仕事着ノ為メ古ク白ク剥ゲタモノトモ見エ又夏襦袢ノ古ビタルモノトモ見エ袖が筒袖ナリシコトハ確カニ覚へ居ルガ証第九号ノ品ト思フ」旨の記載があるところ、原一、二審の判決文全体からみると、これらのものは表現において異なるけれども同一の衣類を指称しているものといつて妨げないであろう。そしてこの新一の犯行時の着衣とされる衣類については、前述のとおり、大正四年八月頃には検事局の嘱託医から依頼を受けた安西茂太郎によつて人血痕附着の有無に関する鑑定が行なわれたものと認められること、〈証拠〉によると予審の終結されたのが大正四年一〇月二八日であることが認められるところからすると、太四郎は捜査段階或いは予審の初期の段階において既に新一の犯行時における着衣は証第九号の仕事着であることを認めていたものと推認できるし、これに太四郎の第一、第二回予審調書の記載、さらに原二審判決挙示の太四郎の公判廷での「被告新一カ押収第九号ノ襯衣ヲ着セルヲ見テ七月十日ノ夜嘉助方ニ同行シタル時ノ新一ノ風体ニ此有様ハ能ク似テ居レル」旨の供述があることからすると、太四郎が新一の犯行時における着衣は証第九号の仕事着であることを認めた後の着衣に関する供述は原二審判決に至るまで一貫していたものとみて差支えないと思われるし、そのことに加えて右仕事着に人血痕があつたとする鑑定人安西茂太郎の鑑定があれば、両々相まつて原二審裁判官が右仕事着が新一の犯行時における着衣であるとの太四郎の供述を信用しても、そこに不合理な点があるとはいい切れないであろう。

次に嘉助を殺害した当時の犯行の模様の詳細について触れる原二審判決挙示の証拠は太四郎の第一回予審調書のみであり、原一審判決においても同様であるから、これらの判決が挙示する証拠からは、太四郎の供述が捜査段階から公判段階に至る過程において変遷があつたか否か明らかでない。ただ前掲甲第七二号証の一一によると、予審終結決定では太四郎が蚊帳の吊手をとり外すと同時に「新一は用意の押切刀を以て嘉助を蚊帳外より斬付け茲に三名相格闘しつつ屋外に出たる後太四郎が嘉助を押へたる処を新一は押切刀を以て」嘉助に創傷を加え、「嘉助は隙を得て小屋前稲田中に飛入り逃避したるも重傷のため即死せり被告太四郎は惨状に愕きその儘逃去りたるに」新一は小屋内に入り嘉助の所持品一切を捜索した旨の事実認定がされていて、太四郎の第一回予審調書に記載された犯行時の模様と異なるので、捜査段階から予審段階までの過程で太四郎の供述に変遷があつたのではないかともみられるのであるが、嘉助が七月一一日早朝その住んでいた炭焼小屋前の水田の中で重傷を負つて死亡していた事実、原一、二審判決の挙示する検事の実況検分書の内容と太四郎の第一回予審調書の記載とを総合すると、犯行時の模様については右予審終結決定における認定事実のとおりであつたとみられなくもないから、太四郎の第一回予審調書の記載内容と予審終結決定の認定事実が相違することの一事をもつて太四郎の供述に変遷があつたと断定することもできない。そうだとすると、太四郎が新一と共に嘉助方に赴く途中までの経過について基本的には一貫した同旨の供述をしていたことと相まつて、犯行の模様についてはおおむね太四郎の供述するとおりであろうと推認したとしてもやむを得ないものと判断される。もつとも原二審判決の挙示する太四郎の第一回予審調書の記載によると、太四郎は犯行時の模様をかなり詳しく供述しているのに、嘉助が創傷を受けた際の状況については触れておらず、しかも原一審の公判廷では太四郎は「加藤ガ嘉助ニ斬付ケタルヤ否ヤ知ラザル」旨供述しているが、この点は本件犯行時が深夜で暗かつたであろうことを考慮しても、太四郎の第一回予審調書にみられる犯行時の模様、原一、二審判決の挙示する医師重村正彬作成の検案書に嘉助には全身に大小二三個の創傷があつたとされ、相当多数回の攻撃が加えられたことが明白である点からして不可解である。しかし原二審判決には、右原一審公判廷における太四郎の供述を証拠として掲げておらず、また罪となるべき事実として認定された事実の中でも太四郎が知らない間に新一が嘉助に斬りつけたとは認定していないところからすると、原二審裁判所としても、新一が嘉助に斬りつけたことは知らないとの太四郎の供述部分は措信するに足らないものと判断したともみられるのである。それでは原二審裁判所は太四郎の供述を分断して措信したことになるが、偽証罪の制裁があることを告知されて証言する証人であつても、すべてが真実を述べるとも限らず、大筋において真実が述べられている場合でも、記憶の不鮮明その他の理由で一部真実と異なる供述がされることのあることは当裁判所としても経験するところであつて、本件のように太四郎の供述には一貫性が認められ、しかもその供述に符合しそれを補強するような証拠も存在する場合においては、太四郎の前記供述部分に真実性がなく信用できないからといつて、太四郎の供述の全体が信用性に乏しいとすることもできない。

3  (選択された凶器の種類、謀議成立の状況、凶器の未発見について)

次に原告らは、太四郎の供述する凶器の重さ、とり扱いの不便さ、太四郎と新一との年令差、居村の違い、謀議成立状況の不自然さ、凶器の未発見からして、太四郎の供述は非常識で容易に疑をもち得た筈である旨主張している。

まず凶器の点について、原二審裁判所がその判決で犯行に用いられた凶器として想定したものは藁切であると推測されることは前述のとおりであるが、藁切が相当の重量と刃長を有するものであるにしても、持ち歩くことができない程のものではない。ただ原一審判決の掲げる太四郎の第一回予審尋問調書からすると、本件犯行が行なわれたのは大正四年七月一〇日の夜一二時過ぎであつたことになるが、かなり長く刃幅も決して狭くない藁切を夜間とはいえ、薄着をしている夏の季節に隠し持つて人目につかず持ち歩くことは必ずしも容易であるとはいえないから、このような凶器を新一が携行したとすることは不自然なようでもある。ところで〈証拠〉によると、本件犯行が行なわれた出口県豊浦郡殿居村は、大正四年当時人家は九〇戸程度で人口も少く、農村地帯であり、新一方から嘉助方までは数戸の人家があつたにとどまること、当時同村には電灯設備はなく、灯油ランプも余り用いられておらず、ほとんどの農家では松根(肥松の根)に火を点じたものを天井から吊下げた金網の上にのせて明かりとしており、明かりは就寝時には消すのが通常であつたこと、本件犯行のあつた当夜は快晴で月令27.3であつたことが認められ、これらの事実からすると、本件犯行のあつた時刻頃は相当に暗く人家からの明かりもほとんどなく、通常人は寝静まり道を歩く人もないといつてよい程であつたろうと推測される。実際上も、前掲甲第四号証によると、路上で人と行き違つても顔が分らない程の暗さであつたことが認められる。このような状況からすると、人目につかず藁切を持ち歩くことができると考えたとしても必ずしも不合理ではない。

次に〈証拠〉によると、新一は明治二五年四月一日生で豊浦郡殿居村に居住していたこと、太四郎は明治一三年一二月二二日生で豊浦郡田耕村に居住していたことがうかがえるから、新一は本件犯行が行なわれた当時二三才で太四郎より一一才年下であることになる。ところで原一、二審判決に掲げられた太四郎の供述によると、太四郎は深夜偶然に新一に会い、新一から嘉助の所持金を窃取しようと誘われてこれに同意し、新一は直ちに帰宅して衣服を着替え、押切(藁切刀)を携行してきて、両者が嘉助方に赴く途中新一は状況如何によつて強盗殺人をも犯す意向を述べたというのであるが、両者が深夜偶然会つたに過ぎないこと、両者の年令差、居村の違いを考慮すると、謀議の成立した状況としていかにも不自然な感があることは否定できない。しかし、〈証拠〉によつて新一の妻フユノの母タカの妹ヨシノが太四郎の兄吉五郎の妻に当ることが認められることからすると、新一と太四郎との間に多少とも縁者としての親近感があつたとみられないでもないし、また原一、二審判決挙示の太四郎の第一回予審調書で、太四郎が新一と出会つた際互いに身の上話をした旨供述していることからすると、新一と出会つたこと自体は嘘であるにしても、両名の間にある程度の交際があつたものとみる余地がないではなく、これらに加えて、予審終結決定で認定しているように新一が嘉助の所持金について「一再ならず窃取の機会を窺ひるたり」とみられないでもなかつたことからすると、あながち太四郎の供述するところが謀議の成立状況としてあり得ないこととはいい切れない。

さらに凶器が発見されなかつた点であるが、確かに原一、二審判決とも押収した刃物を証拠として挙げていないことからすると、前述のとおりこれを凶器とみなかつたものと判断して差支えなく、他に凶器が証拠として挙げられていないことからすると、結局凶器は発見されなかつたものと考えて差支えあるまい。しかし凶器が発見されていなくても、本件の場合現に嘉助は凶器によつて殺害されているのであるから、凶器は当然存在する筈で、偶々発見できなかつたというに過ぎず、凶器が発見できなかつたからといつて、太四郎の供述に疑問を抱くのが当然であるともいえない。

4  (太四郎の性格)

原告らは、太四郎が意志薄弱、自暴自棄的性格であつて道徳心に欠け精神病質者で、同人の供述自体措信し得るものでないことは裁判官に分つていた筈であるとも主張している。

確定記録が廃棄された後の現在としては、原二審裁判官が知り得たと目される太四郎の性格、行状に関する資料の全貌は明らかでないが、少くとも前掲甲第七二号証の一一に記載された予審終結決定で認定された事実に照応する証拠、原一、二審判決に掲げられた証拠にあらわれた範囲では太四郎の性格、平素の行状を知り得たものと思われるところ、これらの証拠からだけでも、太四郎は、一〇〇円横領した事実のあること、酒のために二、三度妻と離別し、一〇〇円程度の負債を負い、厭世感から自殺することも決心していたことが認められるから、太四郎が意志薄弱、自暴自棄的性格で道徳心に欠けた人物であつたとはいえよう。したがつて原二審裁判官も太四郎の供述の信用性を判断するに際しそのような事実は当然考慮に入れたであろうと推測されるのであるが、このような人物は犯罪を犯す者には往々にして見受けられるところであつて、だからといつて必ずしも悉く嘘をいうものとは限らないであろう。なるほど成立に争いない甲第七三、第七四号証によると、心理学、精神医学者である宮城音弥が、太四郎は精神病質者であつて、太四郎の供述は精神病質者において発現する逃避的虚言である公算が極めて大である旨の鑑定をしていることが認められるが、いまこの鑑定の当否を論ずることはさておくとして、仮にそれが正しいにしてもそれは心理学、精神医学の専門家にして初めていえることであつて、心理学、精神医学の専門知識を要求されていない裁判官に太四郎の供述の虚偽であつたことを見抜けなかつたことを非難するのは当るまい。

(六)  (認定凶器と創傷の不一致)

原告らは、原二審判決が凶器を押切(藁切)とみたことは社会通念上著しく合理性、客観性を欠くものである旨主張しているので考えるのに、前記上野正吉、小林宏志の鑑定書が提出された後においては、これらの鑑定結果からみて藁切が本件犯行に用いられた凶器であるとすることは合理性に乏しいものといえるが、前述のとおり原二審判決当時としては、医師重村正彬の検案書中の凶器に関する推論を信用しても無理からぬことであつて、推論された凶器と太四郎が本件犯行に用いられた凶器であるとする「押切(藁切刀)」、すなわち藁切とが符合することから、当時としてみれば、その藁切が凶器であると認定したとしてもやむを得ないというべきであるから、原告らの非難は当らない。

(七)  (凶器、血痕について鑑定を採用しなかつたことの当否)

原告らは、裁判所が凶器及び安西茂太郎の鑑定書にある第九号筒袖衣服の血痕について鑑定を採用しなかつたのは事実審の裁判官としての職責を甚しく怠つたものである旨主張しているので、その点について検討する。

〈証拠〉によると、大正四年一二月一四日付防長新聞及び同日付関門日日新聞夕刊に、同月一三日に開かれた原一審の第二回公判で弁護人から凶器の鑑定が請求された旨の記事が掲載されていることが、〈証拠〉によると、大正五年一月二五日付防長新聞に、同月二四日に開かれた原一審の第五回公判で弁護人から凶器藁切庖丁の再鑑定が請求され、その採否は留保された旨の記事が掲載されていることが、また前掲甲第七二号証の一八によると、大正五年二月八日付防長新聞に、同月七日に開かれた原一審の第六回公判で弁護人から第九号証筒袖の襦袢の再鑑定を専門大家に嘱託するよう申請されたが、不必要として却下された旨の記事が掲載されていることがそれぞれ認められるところからすると、これらの記事にそう事実があつたものとみて差支えないであろう。もつとも第二回公判及び第五回公判での凶器についての各鑑定申請がその後どのように扱われたかは明らかでないが、通常鑑定には相当の日時を要するから、第二回公判での鑑定申請は再鑑定申請のなされた大正五年一月二四日の第五回公判までには却下され、また原一審判決が言渡されたのは同年二月一四日であるから第五回公判での鑑定申請も同日までには却下されたものと考えて間違いなかろう。これに対し原二審の公判においては、新一の犯行当夜の着衣で血痕が附着していたとされる証第九号筒袖衣服及び本件犯行の凶器であるとして押収された藁切について、新一或いはその弁護人から鑑定申請が行なわれたか否か明らかでないから、原二審ではそのような鑑定申請はされなかつたものともいえるし、また乙第三号証の上告審判決によると、新一が上告審においてさえ「押収物ノ鑑定其他ノ証拠調ヲ再施センコト」を求めていたことが認められるところからして、原二審の公判においても右着衣及び凶器について鑑定申請が行なわれたとみられないでもないが、いずれにしても原二審判決からはそのような鑑定が採用された形跡はうかがえない。

そこで原二審裁判所が右着衣及び凶器についての鑑定を採用しなかつたことの当否について考えてみよう。

まず着衣の点については、現在の法医学の学問的水準からすれば、新一の犯行当時の着衣とされる証第九号筒袖衣服に人血が附着していたとする鑑定人安西茂太郎の鑑定は信用し難いが、原二審判決当時を基準にすれば、同人の年令、学歴、職歴等からして同人の鑑定が信用に価するとしても、そのことを非難する余地はないというべきであるから、原二審があらためて右着衣に人血痕があるか否か鑑定させなかつたからといつて、裁判官としての職責を怠つたものとはいえない。

次に凶器の点であるが、原二審裁判所が太四郎の供述によつて裁判所に押収された藁切が本件犯行の凶器であるとすることに疑問を抱いたとみて間違いないであろうことは前述のとおりであるから、押収された藁切自体が凶器でないことを明らかにするためだけの鑑定であれば、採用の必要がないことは明らかである。もつとも原二審裁判所が本件犯行に用いられた凶器は押収された藁切ではないにしても太四郎のいう藁切であると考えていたであろうことは前述のとおりであるから、太四郎のいう藁切によつて嘉助の死体に存していた創傷が生じ得るか否か、の鑑定であれば、あらためてすることの意義もあるが、前述のとおり最近においてさえ重村医師と同様の推論を下す法医学の専門家も存在するのであるから、他の鑑定人に鑑定を命じたとしても重村医師と異なる鑑定がされる保証はないのみならず、弁論の全趣旨によると、重村医師は医師経験も少くなく、警察医をしていて死体解剖の経験もあつたことが認められ、その程度のことは原二審裁判所としても、原一審における同医師の証人尋問調書を通じて知つていたものと推認されるから、同医師の鑑定を信用したことが誤りであるともいえない。したがつて原二審裁判所があらためて凶器について鑑定を行なわなかつたことをもつて、裁判官としての職員を怠つたものと断ずることはできない。

(八)  (現場検証をしなかつたことの当否)

原告らは、原二審裁判所には現場検証を怠つた過失がある旨主張している。

原二審判決に裁判所における検証の結果が証拠として掲記されていないこと、原一審判決においても同様であることからすると、原一、二審とも現場検証をしなかつたものと認められる。しかし原二審判決には、記録四丁ないし一〇丁に存在するものとしての検事実況検分書が証拠として掲記されているから、検事による実況検分書が存在していたことは明らかであるというべく、同検分書の丁数からすると、同検分書は相当詳細に記述されたものと推認し得るから、裁判所としては自ら現場検証をするまでもないと判断したものとみて差支えあるまい。

ところで〈証拠〉によると、太四郎が新一と出会つたとされる田中源吾宅前から新一方までは約四四二メートルあつて徒歩で片道約五分を要すること、また田中源吾宅前から嘉助方に赴くには幅約二メートルで舗装されていない県道から幅員僅か五〇センチメートル程度の細い農道を約四二〇メートル歩き、そこで幅員約一九メートル、水流のある個所の幅約一二メートルの粟野川に達し、同所で丸太二本を結んだもので作られた橋を渡り、さらに約一六〇メートル農道を歩いて行かねばならない地理的状況にあつたことが認められる。とすると、原二審判決が掲げる太四郎の第一回予審調書にみられるように、新一が田中源吾宅前で太四郎と出会つた後一旦帰宅して「十分許リ」後に再び源吾方前まで立戻り得るか、深夜に細い畦道を通り丸木橋を渡り嘉助方に辿りつき得るものか否か、確かに疑問を抱く余地がないではない。しかし前記実況検分書は相当詳細なものとみられるし、捜査の常識として田中源吾方前から新一方までの距離、源吾方前から嘉助方までの経路についての状況検分されていたとみる余地は多分にあり、また前掲甲第七二号証の一四によると、当時の新聞記事から新一が原一審判決で源吾方前と新一方との間の距離関係を問題にしていたことがうかがえるので、その点が原二審公判でも問題にされたとみられないでもなく、原二審裁判所としては、本件犯行に関係のある場所の位置関係等地理的状況を念頭におきながらもなお新一が共犯であるとの心証を覆すことができなかつたものともいえよう。それはそれとして、右認定のとおり田中源吾方前から新一方までの往復に要する時間は徒歩約一〇分でそれに着衣の着替えと凶器の持ち出しに要する時間を加えると一〇分を超過することになろうし、太四郎が新一が自宅に帰つて立戻るまでの時間として述べている「十分許リ」とは多少異なることにもなる。しかし太四郎が時計を見て時間を計測していたというのであればともかくとして、そのようなことは全証拠からしても認められないから、太四郎の供述する「十分許リ」が絶対に正確なものということはできず、経過時間を自分の単なる感じとして述べたに過ぎないとみる余地は十分にある。そうだとすると、太四郎の供述する「十分許リ」が実際の所要時間と若干異なることの一事をもつて太四郎の供述の信用性を否定し去れるものではないし、実際の所要時間について現場検証をしなかつたからといつて別段問題はない。

次に太四郎が新一と共に嘉助方に辿りつける状況であつたか否かの点であるが、確かに前記認定事実からすると夜間田中源吾宅前から嘉助方に辿りつくのは通路の状況からして容易でないことがうかがわれる。しかし原二審判決によると、太四郎は公判廷においても、第一回予審調書においても嘉助方に赴いたとしているのであつて、太四郎が嘉助方に辿りつけるのに新一が行けない筈もなく、この点は現場検証をしたからといつて判断が異なつてくるものでもない。

このように検討してみると、原二審裁判所が現場検証をしなかつたことについて責められるべきいわれはない。

(九)  (アリバイ関係)

原告らは、原二審はもとより原一審裁判所としても新一の犯行当日の行動について新一の妻の証人調べを実施しなかつたのは事実審としての職責を懈怠したものである旨主張している。

原一、二審判決の記載からは新一の妻フユノの証人尋問をしたことがうかがえないが、原一審判決によると新一は同公判で、自分は大正四年七月一〇日夜は夕食後河野喜太郎方に行つて賭博をしたが失敗して夜一〇時頃河野方を出て帰宅した旨供述しており、さきにも述べたように新一は終始太四郎と共犯であることを否認していたのであるから、捜査段階から既に新一のアリバイの有無についてはかなりの捜査がされたであろうし、その捜査の方法としては何よりも先ず新一と居を共にする妻及び他の家族が取調べられ、そのことと併せて新一の立寄先について取調べがされたであろうことは推測するに難くない。〈証拠〉によると、榎並平蔵夫婦は太四郎の供述によつて新一より前に逮捕され、平蔵が事件前日炭を売りに馬車で下関に出て当夜下関に泊つた旨申出たところ、警察が直ぐ電話で下関に照会し、事実であると判明して翌日釈放されたことが認められるのであつて、このことからしても、捜査当局が新一のアリバイについて調査しなかつた筈はないと思われるのである。現に〈証拠〉によると、大正四年一二月二三日付防長新聞には、原一審の第三回公判において新一の父弥太郎が取調べられた旨の記事が掲載されていることが、また前掲甲第七二号証の一八によると、大正五年二月八日付防長新聞には、検事は論告において「一〇日は(註賭博に)敗北午後一一時頃自宅に帰り妻フユノと同衾したりと云へど同女及び父弥太郎の証言に依れば約一時間半の後夜明けたりと陳述」したと述べ、新一にアリバイがないことを指摘した旨の記事が掲載されていることが認められ、これらの記事からすると、父弥太郎については少くとも原一審の第三回公判において取調べられ、また妻フユノについては捜査から原一審公判における検事の論告までのどの段階においてであるかは不明であるが、取調べられ、これらの者の供述を記載した記録が存していたものと推認される。しかも〈誰拠〉によると、新一は第六次の再審請求の際の昭和五一年四月八日の尋問において、父弥太郎は山口の裁判所に証人として呼ばれ、その際犯行当夜新一は家におらず新一が帰宅してから一時間半位して夜が明けたと或いは誘導されて言つたかも知れない、と述べていることが認められ、このことと前記新聞記事によれば、妻フユノの供述内容が同記事のとおりであつたか否かは別としても、少くとも父弥太郎は右新聞記事のとおり証言したとみて間違いないように思われる。概して近親者同士はかばい合うのが通例でそのため近親者の供述には信を措き難い場合も多いのであるが、新一の父弥太郎についてはそれと違つて新一に不利益な証言をし、その証言によつて新一が夜明け一時間半前まで自宅にいなかつたことがうかがえる以上、新一のアリバイは証明されなかつたといつても過言ではなく、そうであればあらためて裁判所が妻フユノを証人として尋問する必要もないことになるから、裁判所が同女の証人尋問を実施しなかつたからといつて職責を懈怠したものとはいえない。

(一〇)  (まとめ)

さきに述べたように裁判官の事実認定の誤りが国家賠償法上違法となるのは、経験則、採証法則を著しく逸脱し、裁判官としての良識を疑われるような場合に限られるものと解すべきであるが、原二審判決当時原二審裁判所の裁判官らが認識し、或いは認識し得た資料からすれば、前述のとおり太四郎の供述の信用性を裏付ける事情は多々ある反面、その信用性を決定的に否定し去る程の事情はないから、太四郎の供述を信用したことをもつて経験則に反するものとはいい難いし、その他原告らが裁判官らの過失として掲げる諸点、すなわち凶器に関する認定、鑑定の不採用、現場検証をしなかつたこと、及びアリバイについて新一の妻の証人調べをしなかつたことについても、原二審裁判所の判断、審理のあり方に非難すべき点はなく、もとより裁判官の良識を疑わせるような点はないのであつて、経験則、採証法則に反しているとはいえないから、要するに原二審裁判所の裁判官らの行為について国家賠償法上の違法があつたとすることはできない。

六上告審判決の適否

原告らが上告審判決の違法を主張しているものか否か必ずしも明らかではないが、上告審判決は、新一に対する刑の執行の基本となつた原二審判決を維持したもので、その意味では刑の執行とかかわりないものとはいえないので、上告審判決の適否についても判断するのに、前掲乙第三号証(上告審判決)によると、新一が無実を主張して原二審判決の事実認定を非難し、押収物の鑑定その他の証拠調べを求めて上告したのに対し、上告審が適法な上告理由ではないとして上告を棄却したことが認められるが、さきにも述べたように原二審判決が経験則、採証法則に反しているとはいえないのみならず、旧々刑事訴訟法の下では事実認定の不当は適法な上告理由とされていなかつたのであるから、上告審の判決には何ら違法はない。

七結論

以上のとおり原二審判決には国家賠償法上の違法があるとはいえず、同判決は適法な上告棄却の判決によつて新一に対する刑の執行の基本になつているのであるから、原二審判決に基く刑の執行もこれを違法であるとすることはできない。しかし当裁判所は、現段階においても新一が有罪であるべきであるというのではなく、もとより再審無罪判決が誤りであるというのでもない。〈証拠〉によると、再審手続においては、弁護人、検察官から相当量の証拠が提出されたことがうかがえるのに対し、本件訴訟ではその一部が提出されたにとどまるが、その一部の証拠のみによつても太四郎の供述の信用性を支える大きな柱であつた、着衣に人血痕があつたとする安西茂太郎の鑑定が信用し難いものであり、また医師重村正彬作成にかかる検案書中の凶器に関する推論が合理性に乏しいことが指摘でき、これらのことが太四郎の供述の信用性にも大きな影響を及ぼすことを考慮すると、新一が太四郎と共同して本件犯行を行なつたものとは認め難いのである。しかし一般的に被告人が犯行を否認している、いわゆる否認事件においては有罪か無罪か判定しかねる場合が多いのも事実である。それだけに裁判官は、罪のある者が処罰を免かれることのないよう、反面罪のない者を処罰することのないよう、真実の発見に努めるのであるが、判決当時には誰しも真実であることを疑わなかつた証拠が実は誤つていたというような場合、結果として事実認定が誤つているとされることが絶無とはいえない。本件がまさにその場合で、新一が太四郎と共犯であつたとする原二審判決の事実認定は、結果的には誤りであつたということになるが、同判決当時の証拠関係からすれば、無理からぬものということができるのである。

してみると、原告らの本訴請求はその余の点について判断するまでもなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(森川憲明 大前和俊 吉田徹)

別紙(一) 原二審判決〈省略――本誌三三九号二五三頁参照〉

別紙(二) 原一審判決の証拠説示〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例